AccessVBAで30億円企業の入金消込をシステム化した天才が転職した後、その会社に何が起きたか【後編】

J-SOXでの彼の本領

前編では、彼との出会いや彼が経理課で作り上げたシステムについてお話ししました。また、彼が内部監査室にやってきた経緯についても触れました。

内部監査室の仕事には、大きな柱がありました。通常の内部監査に加え、J-SOXへの対応という重い業務です。これは財務報告に係る内部統制の評価と監査を行うものです。上場企業として法律で義務付けられており、非常に重要な役割を持ちます。この業務は本社だけでなく、グループ全社を巻き込む規模で動いていました。各社や各部門へヒアリングを行い、業務フローを細かく紐解きます。その上で、文書化の3点セットと呼ばれる資料を整備します。具体的には、業務フロー図、業務記述書、リスクコントロールマトリクスです。さらに評価を行い、監査法人によるチェックを受ける工程があります。これらを期末に向けて回し続けるため、日々は非常に多忙でした。

まず、その激務の中で彼の本領が最もはっきりと見えたのです。

J-SOXの文書化で最も難しいのは、業務プロセスの「本質」を掴むことです。現場の担当者に話を聞いても、日々の作業内容を説明してもらえるだけです。「その業務にどんなリスクがあるか」という視点の整理は、私たちが補わなければなりません。「それをどんな方法でコントロールしているか」をまとめるのも私たちの役割です。

彼はその作業のスピードが驚くほど速かったです。

システム業務連携のリスク嗅覚

彼は現場担当者の説明を聞いている間、ほとんど口を挟みません。しかし、ヒアリングが終わった後にまとめを書かせると、核心だけが綺麗に残っていました。「このフローのここに、承認の抜け穴があります」という指摘が並びます。「この業務はシステムが自動処理しており、実質的に統制が効いていません」とも書かれていました。そうした鋭い指摘が、淀みなく出てくるのです。

経理業務のシステムを自分で作り上げた経験が、ここで生きていたのだと感じます。

業務とシステムの接点に潜むリスクを嗅ぎ取る能力は、独特なものです。実際に業務を担いながらシステムを設計した人にしか、持てない感覚ではないでしょうか。彼はその感覚を、J-SOXという全く異なるフィールドでも見事に使いこなしていました。

一方で、一緒に仕事をする中で、私は何度かこう感じていました。「この人がいる部署は、本当に強い」という実感です。それと同時に、ある不安も抱いていました。「この人が去ったら、組織はどうなるのだろう」という予感です。

内部監査室での彼の仕事ぶりと揺るがぬ軸

内部監査室での1年間を振り返ります。彼との仕事は、私にとって非常に刺激的な経験でした。

彼は与えられたタスクに対して、まず全体像を静かに把握します。そして、解くべき問いを自分の中で整理していました。必要なものだけを使い、過不足なくアウトプットを出します。その作業には一切の無駄がありませんでした。説明する際も、聞き手が理解しやすい順序で情報を並べてくれました。

経理での「出来すぎゆえの孤立」を見てきた私には、この環境が彼に合っているように思えました。内部監査室では、精緻に分析して正確に指摘することが求められます。感情的な配慮よりも、論理の正確さが優先される場面も多いからです。彼のスタンスは、仕事の性質とよく噛み合っていたのではないでしょうか。

ただ、それでも彼が組織に完全になじんでいたかというと、そうでもなかったように見えます。

どんな場所に行っても、彼はやはり彼でした。自分のスタンダードを下げることなく、求められた以上のものを静かに出し続けていました。それは能力の問題ではなく、彼の性質によるものだったのでしょう。どんな環境に置かれても自分の軸から外れない人でした。彼はまさに、そういう人間でした。

優秀な人材の離職とAccessの呪縛

しかし、異動から1年が過ぎたころ、彼は転職することになりました。報告を受けたとき、驚きはありましたが、納得する気持ちもありました。「やはりそうなるか」という予感です。

これほどの実力がある人が、一つの会社に留まり続けるとは限りません。むしろ外の世界で力を試したいと思うのは、自然なことでしょう。優秀な人ほど外へ羽ばたいていくのは、多くの会社で見られる光景です。私は彼の決断を、心から応援したいと思いました。

ただ、彼が去った後に何が残されるかを、私は知っていたのです。あの、誰も触れることのできないAccessのシステムが、そのまま残されてしまうという事実です。

Accessシステム、保守不能の末路

彼が転職した後、事業子会社の入金消込システムは、まずそのまま動き続けました。出来上がったシステムというのは、しばらくの間は触らなくても動くものです。大量の入金データを取り込み、消込処理を回してレポートを出します。その動作自体は、彼がいなくても継続が可能でした。

しかし問題が起きたのは、システムを変更しなければならなくなった時です。経理の業務は止まりません。税制や社内ルールの変更、あるいは銀行のデータ形式の変更などが起こります。システムを修正しなければならない場面は、必ず訪れるものです。

そのようなとき、システムの中身を理解してコードを直せる人間が、社内にいませんでした。Accessファイルを開き、VBAのエディタを立ち上げることは誰にでもできます。しかし、複雑な消込ロジックを読み解くことは誰にもできませんでした。端数処理や分割入金の突き合わせまで含めた修正は、手が付けられない状態でした。

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莫大な解析費、Accessシステム廃棄の決断

そして解析が完了した後、会社が下した決断は意外なものでした。解析したシステムを使い続けるのではありません。市販の入金消込パッケージソフトを購入し、Accessシステムを廃棄するという決定です。莫大な費用をかけて解析した結果が、システムを捨てて新しくすることだったのです。

しかし、誰も保守できないシステムを抱え続けるのは恐怖です。解析費用を払ってでも出口を探したいという切実な気持ちも、よく分かります。どちらの判断も、現場を知っていれば理解できるものでした。こうして、一人の天才が独力で作り上げたシステムは、静かに消えていきました。

見えない属人化:システムを動かす設計思想

この話から私が考えるのは、「属人化」という言葉の本当の意味についてです。属人化といえば「その人しか知らない業務プロセス」をイメージしがちです。誰かが退職したら引き継ぎが大変だ、という話として語られることが多いでしょう。

ですが、彼のケースはもう一段深いところにありました。

彼が作ったシステムは、コードとして物理的に存在していました。Windowsのフォルダを開けばそこにあり、中身を見ることはできます。それでも、誰も「触れなかった」のです。

システムは存在していましたが、動かしていた本当の力はコードではありません。それは、彼の頭の中にありました。「なぜこの処理がここに入っているのか」という意図はコードに残りにくいものです。端数処理の想定などの設計思想は、彼の記憶の中にしか存在していなかったのです。

属人化システムの終焉

会社はシステムという「物」を得たつもりでいました。しかし実際には、彼の知見を長期間借りていただけだったのでしょう。彼が去った瞬間、そのシステムは実質的に死んでしまいました。物としては残っていても、動かし続けられるものではなくなったのです。

これは彼が悪かったわけではありません。日々の業務をこなしながら、一人で開発・維持をするのは大変なことです。完全なドキュメントを書き続ける余力があったとは考えにくいからです。

問題は組織側にありました。「この人がいれば動く」という状態を長期にわたって放置した構造です。天才が去った後に初めて会社はその重さに気づく、というパターンが繰り返されています。

AIが変えるコード解析、ドキュメント化の鍵

この話を今書いているのは2025年です。あの出来事から5年ほどが経ったタイミングです。生成AIが当たり前になった今、当時のプロセスが非効率だったと感じます。莫大な費用をかけてシステム会社に解析を依頼した、あの時のことです。

あのVBAコードを、今ならAIに貼り付けるだけで十分です。ClaudeやChatGPTに聞けば、数分で処理内容の解説が返ってきます。「端数処理のロジックはどこにあるか」と聞けば該当箇所を教えてくれます。「Pythonで書き直して」と頼めば移植案さえ出てきます。無料で、しかも短時間で可能です。

当時、多額の費用をかけて行った解析作業の多くが、今ならゼロコストで再現できます。あの費用は何だったのか、という感覚をどうしても抱いてしまいます。ただ、一つ付け加えさせてください。

属人化を防ぐAIドキュメント術

生成AIがあったとしても、「ドキュメントを書かない」という問題は消えません。コードを解析できても、設計の「意図」までは残らないことが多いからです。「なぜここで丸めているのか」「なぜこの例外処理があるのか」という文脈です。こうした背景は、やはり作った本人の頭の中にしかありません。

だからこそ今、提案したいのは、AIを「速度ブースター」として使うことです。コードを書くたびに「処理の概要と注意点を書いて」とAIに頼みます。そうすれば、作りながらその場でドキュメントを量産できます。

属人化は、誰も問題にしないことこそが最大の問題です。困るのは常に、その人がいなくなった後なのですから。最後に、私自身の話を少しだけさせてください。彼が転職してからほどなく、私も内部監査室を離れました。もともと所属していた事業子会社へ戻る、出戻りの人事でした。

天才は外の世界へ飛び出し、私は元の場所へ戻りました。内部監査室に残ったのは、引き続く業務と、人がいなくなった静けさだけでした。

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